2015年2月23日月曜日

わかるまで、わからない

家を売りに出した後で、色々な欠陥に気づいて慌てて修繕したり、家を見に来る人のために出たり入ったりを繰り返したり、なかなかストレスのたまる状況です。

そんな中、ふと思い出すのは、かつての自分がストレスとどれほど格闘したか、ということです。ストレスを感じても表に出してはいけないとか、瞑想をちゃんとしているならストレスを超越あるいは昇華できるはずだとか、世にも不思議なことをたくさん信じて苦しみを生んでいました。

そうじゃなくてもすでにストレスを感じていたのに、ストレスを感じていることにケチをつけることでいらない負担をどんどん増やし、最後は身動きがまったく取れない状態に陥っていました。

我が師カーリーに助けを求める頃には混乱の極みに達していて、さらに英語がうまくしゃべれなかったこともあり、相談しようにも言葉が一切出てこない、なんていうことがよくありました。

しまいには泣き出し、しゃくりあげながら支離滅裂な説明をする私に、カーリーは言いました。

「どうして浮かび上がろうとするの?」
「??」
「沈んでいるときは、沈んでいるっていうだけなのよ。沈んでいること自体は苦しいことじゃない。でもあなたは浮かび上がらなくてはいけないって思ってもがくから、それが苦しみを生んでいるのよ。」

その指摘は魔法のように、私を堂々巡りの苦しみから解放してくれましたが、そうしてちょっとするとまた、同じような状況が起き、同じような苦しみのパターンを繰り返していました。

さて、今はどうかというと、ストレスを感じているときにリラックスしようとすることは、狂気の沙汰に思えます。どこからどうやったらそんな発想ができるんだ?というくらい謎に思えます。

このどーんとくる重い感覚や、神経がすり減るような感覚に対し、ふと、”もし、これをストレスと呼ばなかったらどうなるんだろう?”という好奇心が湧きます。名前を付けないでいると、あるいはどけると、感覚だけがありありと感じられ、そしてどんな嵐もそうであるように、やがて過ぎていきます。

へぇ、と不思議な感じがします。

何度色々な人の言葉を読んでも、聞いても、その時わかった気がするだけで同じことを繰り返すだけだったのに、あるとき突然それが腑に落ちて、やがてそれが紛れもない現実になる。

そしてそれはいつ起きるとも、起きないともわからない。

うーむ、と、生命の神秘に打たれて言葉を失うのみです。